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パキスタン人の友人と・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年11月21日(日)23時59分53秒
返信・引用
  パキスタンでは、アフガニスタンでの戦争難民がなだれ込み深刻な人口増加が問題となっています。

ましてやその難民の中に自爆テロや兵力拡散を目的とした武装勢力等も紛れ込み、必然的に軍事勢力がパキスタンでも毎日のように爆音や悲鳴で街は混沌としています。

っというのも私の友人のパキスタン人はまさにその戦争まっただ中の母国に毎年家族の安否を伺いに日本からパキスタンに帰国するそうです。

私も来年のいつになるかは分かりませんがその友人の家を拠点に戦争というものがどういう形で悲惨なのかをこの目で確かめ、考えてきたいと思います。

日本は目に見えない戦争の真っ只中で決して平和とはいえませんが、せめて心は平安でありたいものです。

私は毎朝毎晩心の豊かさと平安をキリストにお祈りしています。

それではお休みなさい!!
 
 

私もです

 投稿者:寺田祐一メール  投稿日:2010年10月26日(火)02時07分6秒
返信・引用
  3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 ヨハネの福音書

 3:3の「人は、新しく生まれなければ」という箇所は、英語ではBorn Again、日本語では「新生」と言われます(conversionという語を使ったりもします)。イエス様と出会って生まれ変わる、今度はクリスチャンとして新しく出発すという意味で、つまり、自分の中でずっと積み上げて来たものの延長線上にある悟りとは違うらしいのです。
 実は私もよく分からないのですが、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」とイエス様がおっしゃる通り、悩みの解決、新しい哲学、理性の果てにあるものではなく(形而上学の不可能を言う)、イエス様との出会い、それを御霊によって知ることなのだと。
 不思議なことですが、でなければ、ごちゃごちゃとうるさい私のような者は、その救いの恵みにあずかることは出来なかったでしょう。
 一度死んで(罪の中に)、新しく生まれる(御霊によって)、これが洗礼です。
 洗礼を受ける者は、水から上がるその時、圧倒的な恵み、喜びとして知るでしょう。そしてこのすべてのことを無条件で受け入れる、これを信仰と言うのでしょうかね。
 罪を自覚出来るクリスチャンこそ、罪との戦いは生涯続くでしょうが、まず、自分が罪深い者と徹底的に知るのは、新しい人生の始まりです。
 私の文章はピントが外れていますが、聖書にはすべてのことが書いてありますので、野寺先生のもとで、さらに学ばれるとよいと思いますよ。
 

罪に打ちひしがれます・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年10月24日(日)23時32分4秒
返信・引用
  私は最近考えるのです。 自分は全的に堕落していて、神様がこんな私の信仰まで義と認めてくださった・・・本当に感謝という言葉以上の言葉があるなら叫びたいほど私はありがたく思っております。 一方では私は自分の内存する罪や誘惑に流されて犯した罪・・・とにかく私は情けない。

本当にどうしようもない私ですが罪を意識して生活していきたいと思うのです、しかしそんな自分すら罪に見えてくるのです・・・私は自分を良く見せようとしているだけではないのか?結局自己満足で終わらせていないか?そもそも私の罪を意識する心すら偽善に思えてくるのです。

私は洗礼を待ち望んでいます、しかし常に私は誘惑と背中合わせに寝ているのです。

本当に神様が隣で共にあり私を励まし支えて下さらなければ私は自分の愚かさにも気付かなかったかも知れません。それなのに堕落の象徴といっても可笑しくないであろうこの私が罪の判断基準を自分で勝手に決め自らを裁くことをしていないか?最後の裁きをお与えになる権利は神様にあるのに・・・私は神様のまねごとをしようとしていないか?これほどまでの冒涜があるか?私はただ祈るだけです・・・祈って祈って祈り通すだけです。

私は罪人なのだから私には神様に縋りつくしか生きる道がないのだと、感謝の気持ちで心は躍り、一方では自らの罪に打ちひしがれるのです。
 

私は・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年10月 7日(木)21時31分2秒
返信・引用
  松陰先生はいつまでも私にとって師と呼べる存在です。 しかし生徒はそのうち一人立ちせんといかんです。

私は生まれたその時から歩き続けるしかないのであって『改めて』というものはありません。

22の今日まで人生の経過の一つに大きくキリストという救いに気付けたことは本当に幸せなことでありました!!

洗礼を待ち望み今はただ感謝と信頼と真心を以てあらゆることにひたすら面と向かうのみであります。
 

旅の始まり

 投稿者:寺田祐一メール  投稿日:2010年10月 7日(木)09時22分46秒
返信・引用
   うーんそうか、島根君は長州だったね。
 なかなか面白いイラストです(なっているかな‥‥ )。
 松陰からキリストへ、いよいよ本格的な旅が始まりましたね。
 とても楽しみです!
 

(無題)

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年10月 6日(水)23時57分39秒
返信・引用
 
(無題)お絵かき58792


これぞ我が人生かな・・・笑
 

真心の足りなさを痛感しました

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年10月 3日(日)19時46分53秒
返信・引用
  私は人間である以上良い教えを知って、それを他にいわないでおれないのは、人の至情であると思っていました。

ですが、私の人に伝えていた教えは決して至情では無かったのかもしれません。

今では自分はこれほど勉学したんだというのを他人に誇示したかったのに過ぎないのでは思います。

なんとも情けないです、そもそも学問とは自らを育てるためにするもので・・・人が人である、そのいわれを学ぶものであると教わりました。

私の学問はやったりやらなかったりという大禁忌を犯していました。

純粋に学ぼうという姿勢を失いいつの間にか真の学問を忘れ権勢を追い求める欲深い人間となっていたのかもしれません。

とにかく私は哲学や思想、それはさておき自分の学問をもう一度見つめ直す機会を持とうと思います。
 

島根君はすごいな

 投稿者:寺田祐一メール  投稿日:2010年10月 1日(金)23時15分4秒
返信・引用
   ふーん、島根君はずいぶん難しい本を読んでいるんですね。あまり読みやすい本とは言えませんが、読み通したのですね!
 フロイトからの影響が大きかった人だと思うのですが、それだけでは個人の感情のうちにだけ止まってしまい、社会的な一般性や多数への応用が難しくなります。そこで人の感情や行動をひとつひとつのエレメントに還元し、再び構築するという方法をとったのでしょう。するとそこに一種の検証出来る(と思われる)一般性が見えて来ます。その様々な様態を分類して位置づけることによって「一種の追跡可能な様式で組み立てられた諸力の集合体」が現れるのかも知れません。
 しかしそれはどんな意味を持つのか、たとえそのような分類に従っているように見えたとしても、分解以前の私の人格を言い表したことにはならないのです。誰がなんと言おうと、私は私なのですから。
 最終的に人が人であるためには、どんなに細かく分解しても、再びくっつける時、愛なしには元には戻らないと、私も考えます。なぜなら、私たちをお造りなったのは神様であり、神様は私たちを愛によってお造りになったからです。
 と、私は信じていますよ!
 

島根君はすごいな

 投稿者:寺田祐一メール  投稿日:2010年10月 1日(金)23時12分32秒
返信・引用
   ふーん、島根君はずいぶん難しい本を読んでいるんですね。あまり読みやすい本とは言えませんが、読み通したのですね!
 フロイトからの大きかった人だと思うのですが、それだけでは個人の感情のうちにだけ止まってしまい、社会的な一般性や多数への応用が難しくなります。そこで人の感情や行動をひとつひとつのエレメントに還元し、再び構築するという方法をとったのでしょう。するとそこに一種の検証出来る(と思われる)一般性が見えて来ます。その様々な様態を分類して位置づけることによって「一種の追跡可能な様式で組み立てられた諸力の集合体」が現れるのかも知れません。
 しかしそれはどんな意味を持つのか、たとえそのような分類に従っているように見えたとしても、分解以前の私の人格を言い表したことにはならないのです。誰がなんと言おうと、私は私なのですから。
 最終的に人が人であるためには、どんなに細かく分解しても、再びくっつける時、愛なしには元には戻らないと、私も考えます。なぜなら、私たちをお造りなったのは神様であり、神様は私たちを愛によってお造りになったからです。
 と、私は信じていますよ!
 

フロムの悪について

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年 9月15日(水)23時50分3秒
返信・引用
  本日フロムの「悪について」という本を読み終えました。

~人間は一種の追跡可能な様式で組み立てられた諸力の集合体である~

最後のこの言葉にはとても衝撃をうけました。

私は人間が愛無しに学ぶ知識は無に等しいと強く信じています。

それが精一杯です!!
 

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