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お父さんは今から66年前日本陸軍として終戦を迎えました。
お父さんは兵隊としてだけではなく、衛生兵的な役割も任せられていたそうです。配属当初は中国に3年間、そして1945年8月15日の終戦までニューギニア戦線で今日死ぬとも知れない毎日を送っていたそうです。
兵隊として人を殺さなくてはいけない、衛生兵として人を救わなくてはいけない・・・そんな中自分の命すらも守らなくてはいけない。私には想像を絶する世界です。
死ぬ準備の出来ている人間なんているわけないんです、それが突然・・・しかも近いうちに襲ってくる・・・それが戦争というものです。当時の日本軍はジャングル地帯で命綱ともなる方位磁石も支給されず獣のように敵を見つけては攻撃するという戦法をとっていました。
弾倉も空、食料も尽き、薬も無い、友達が目の前で餓死や病死するのを何も思わない者があるでしょうか?否あるわけがありません。それが出来るのは人では無い。
東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加しました。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかったと言われています。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明ではありますが、連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上ったそうです。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されています。
どれだけの人間が血を流し涙を流し・・・故郷を思い死んでいったことでしょうか?
お父さんはそんな戦線の真っ只中でそれを経験し、そして生きて戻ってきてくれた。
でも誰がお父さんの後の人生まで考えてくれたでしょうか?誰がお父さんの心の傷を癒そうとしてくれたでしょうか?
私の同期は生きている、卑屈になっていた私はそれを忘れていました。 お父さんは死んだ同期には会えないんです。死んでいった者よりも残された者が背負うものの方が大きかったはず。それでもお父さんは生きることを選んだ。私は愚かでした、意気地なしでした。
こうやって赤羽聖書教会の皆さんや、新しく私を慕い集まってくれる仲間もいる。
そして神に救われている事にすら気付かせてもらえた・・・。
感謝しているんです。皆さんにも、神様にも。
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