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忘年会と新年会

 投稿者:島根 裕也  投稿日:2011年 1月 8日(土)15時30分33秒
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  忘年会と新年会は社会に出れば遭遇するものですが、私は両方とも嫌いです。

忘年会=忘れて良い一日なんて過ごしてきた覚えはないですし、いたずらに時を過ごすことは私にとって最大の不覚としています。 勿論仲間との会食が嫌いなわけではありませんが、飲酒して人格を失う会食に参加するのは恥とすべきと教わりました。

新年会=無事に新年を向かえられたことを感謝するという意思には賛成ですが、そこにやはり飲酒が関係して人格を失うのは私にとっては恥であります。

以上の理由から人格を失う会食・会合・安楽にあえて関係を求めないのです。
 
 

ニューギニア前線において

 投稿者:島根裕也  投稿日:2011年 1月 5日(水)23時09分8秒
返信・引用
  お父さんは今から66年前日本陸軍として終戦を迎えました。

お父さんは兵隊としてだけではなく、衛生兵的な役割も任せられていたそうです。配属当初は中国に3年間、そして1945年8月15日の終戦までニューギニア戦線で今日死ぬとも知れない毎日を送っていたそうです。

兵隊として人を殺さなくてはいけない、衛生兵として人を救わなくてはいけない・・・そんな中自分の命すらも守らなくてはいけない。私には想像を絶する世界です。

死ぬ準備の出来ている人間なんているわけないんです、それが突然・・・しかも近いうちに襲ってくる・・・それが戦争というものです。当時の日本軍はジャングル地帯で命綱ともなる方位磁石も支給されず獣のように敵を見つけては攻撃するという戦法をとっていました。

弾倉も空、食料も尽き、薬も無い、友達が目の前で餓死や病死するのを何も思わない者があるでしょうか?否あるわけがありません。それが出来るのは人では無い。

東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加しました。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかったと言われています。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明ではありますが、連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上ったそうです。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されています。

どれだけの人間が血を流し涙を流し・・・故郷を思い死んでいったことでしょうか?
お父さんはそんな戦線の真っ只中でそれを経験し、そして生きて戻ってきてくれた。
でも誰がお父さんの後の人生まで考えてくれたでしょうか?誰がお父さんの心の傷を癒そうとしてくれたでしょうか?

私の同期は生きている、卑屈になっていた私はそれを忘れていました。 お父さんは死んだ同期には会えないんです。死んでいった者よりも残された者が背負うものの方が大きかったはず。それでもお父さんは生きることを選んだ。私は愚かでした、意気地なしでした。

こうやって赤羽聖書教会の皆さんや、新しく私を慕い集まってくれる仲間もいる。

そして神に救われている事にすら気付かせてもらえた・・・。

感謝しているんです。皆さんにも、神様にも。
 

ニューギニア前線において

 投稿者:島根裕也  投稿日:2011年 1月 5日(水)22時38分33秒
返信・引用
  私には今年92歳になる師がいます。

私は(お父さん)といつも呼ばせてもらってます。

お父さんは92歳になりますが、色々な所に散歩に出かけて買い物をしたり、馴染みの仲間に挨拶に出かけたりと年齢を感じさせない逞しさを兼ね備えています。

ちょうど3年前の3月の終わり頃、警察からはじかれ精神的にズタボロになっていた時期の事でした。 何もかもが自堕落で情けなく関わる人や組織を全て敵視し孤独の毎日を送っていた時の事。

私はいつも通る何でもない道でやたらと賑やかで楽しそうな笑い声の聞こえる一軒のお店を見つけました。そこに何か引かれるものを感じて暖簾をくぐったのですが、そこは狭くてとても清潔とは言えない佇まいの居酒屋でした。

でもそこの女将さんはお客以上に大きな声で笑うのです。お客以上に人生を楽しんでるように見えるんです。 人の笑い声というのはどんなに落ち込んで卑屈になっている時でも不思議と温かいものです。

そこには仕事で疲れて酒に逃げた者もいれば、大人にもなってだらしない事ばかり言っている者もいます。 でも一人カウンターの奥の方でひっそりと一人酒をチビリチビリ飲む老人がいたのです。

周りとは明らかに違う、でも気味が悪いというわけでもない。今までに経験したことのない何かを感じました。 それが今日師としているお父さんとの出会いでした。

お父さんは俺に気付いてしばらくこっちを見ていました、そして『お前さん何を失ったんだい?』その一言は私が今一番触れられたくない一番憎む過去でした。

でもお父さんは私の反応を見抜いたかのように『俺ぁ家族を失った、血も繋がってないどこのどいつかも知れねぇヤツラもいたが、そいつも込みで俺ぁ家族を失っちまった・・・』そういうのです。

警察官、私は5カ月という短い期間でしたが、その5カ月というのは恐らく誰に話しても理解してもらえない程濃密なものでした。その中で頼れる者それは同期や教官・助教だけなのです。

確かに警察は洗脳ともいうべき教育を強要されます。それは言葉に留まらず暴力や精神的屈辱を与えられながら・・・。

だからこそ同期は大切なんです。警察官は強くありません、警察官一人の力なんていうのはアリが砲丸投げの玉を一人で持ち上げようとするようなものです。それは2人3人と増えた所で何も変わらないんです。だから同期という集合体は各々が違う考え方をもってバラバラになってはいけない。犯罪という砲丸玉は決して衰える事を知らないし、時間がたてばむしろ増えていくばかり・・・、警察はそんな厄介なヤツを相手に日々闘っているんです。

そんな教育を受け同期を愛して止まなかった私は一人取り残されてしまった。 もうあいつ等と同じ立場で闘う事が出来なくなってしまった・・・。

私は自然と涙がこぼれ『俺も家族を失いました』そうお父さんに言いました。

続きます→→


 

第21回北東京シティクリスマス

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年12月14日(火)20時51分49秒
返信・引用
  こんばんわ。 皆さん一週間どうお過ごしでしょうか?

先日第21回北東京シティクリスマスに参加しましたが、とても考えさせられる会になりました。

『歌手にとって声が命であるのなら我々警察官にとって同期はまさに命』

私も過去に大切なものを一瞬で失いました。

でも全てどんな大きな権力によるものだとしても、全てにおいて私が悪いのです。

それに命にも似たものを失っても今生きている事実は覆りませんし、何より私には今といつまで続くかなんて私の知るところではございませんが、将来というものがあります。

だから人生は絶望で終わらないという言葉には同感です。

人に殺されるのも病に倒れるのもこれまた天名と心得ております。

それに絶望に打ちのめされても、自殺はしません。自殺なんてしてる暇はありません。

第21回北東京シティクリスマスの〆でアリランを歌われました、私の育った山口県は征韓論云わば朝鮮半島侵略の魁となった県であります。

過去とは云え、アリランを聞くといつも胸に突き刺さるものがあります。

不思議と・・・拭えぬ罪ほろぼしなのか分かりませんが、山口県は朝鮮学校が多いのです。

色々問題はありましたが、朝鮮学校から聞こえたアリランは征韓論など考えもしなかった若い時分の心にも深い悲しみと信念たるものを感じ取れました。

歌の力がいかに凄いかと本当に感じます。
 

最高の塔の歌 アルトゥール・ランボー

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年12月 7日(火)23時53分40秒
返信・引用
  最高の塔の歌



あらゆるものに縛られた

哀れ空しい青春よ、

気むずかしさが原因で

僕は一生をふいにした。


心と心が熱し合う

時世はついに来ぬものか!


僕は自分に告げました、忘れよう

そして逢わずにいるとしよう

無上の歓喜の予約なぞ

あらずもがなよ、なくもがな。


ひたすらに行いすます世捨てびと

その精進を忘れまい。


聖母マリアのお姿以外

あこがれ知らぬつつましい

かくも哀れな魂の

やもめぐらしの憂さつらさ。


童貞女マリアに

願をかけようか?


僕は我慢に我慢した。

おかげで一生忘れない。

怖れもそして苦しみも

天空高く舞い去った。


ところが悪い渇望が

僕の血管を暗くした。


ほったらかしの

牧の草

生えて育って花が咲く

よいもわるいも同じ草。


すごいうなりを立てながら

きたない蝿めが寄りたかる。


あらゆるものに縛られた

哀れ悲しい青春よ、

気むずかしさが原因で

僕は一生をふいにした。


心と心が熱し合う

時世はついに来ぬものか!
 

中原中也 山羊の歌No1

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年12月 6日(月)23時13分18秒
返信・引用
  無題

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持をみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のやうに我儘(わがまま)だつた!
 

心を救って下さったのは・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年12月 5日(日)22時35分18秒
返信・引用
  私は警察官を退職しなくてはならなくなってから、心が閉鎖的になり何処に向けて良いのかも分からぬ意味の分からない復讐心に縛られていました。

私の警察官時代、悔しくも警察学校常駐という身分で終わってしまいました。

将来に希望を抱き、どんな険阻艱難にも共に耐えてきた同期との関係をこの文章に書き切る事は到底出来ません。

私にとって苦しみを理解しあえる唯一の家族でした。

でもこれは私に与えられた天命と今は思っています。私には私にしか出来ない何か大切な事がある・・・・その一心が私の支えです。

あいつらは日本の秩序を守る為、私が歩む事の出来なかった道を決死の思いで歩んでいる、でも私にもあいつらに出来なかった道をこれから決死の覚悟で歩んでいく義務がある。

これが義務でなしに私とは何なのでしょうか?

私は決死の覚悟で生きなくてはいけない時期だと強く思うのです、若いとか未熟とか言っていられないんです。

人間の寿命には定まりは無い。

今投稿しているこの瞬間の命を誰が保障してくれるのですか?

私はだからこそ今この瞬間を無駄だとは思いたくないし、いたずらに時を過ごす気もないのです。

神様が共にいて必ず救って下さるから私は恐怖を感じても妥協しない強さを持っている。

聖書とは本当に賜物ですね。

もちろん色々な意味では他の書物も私には必要でしょうが・・・。

来週からまた一週間私は決死の覚悟で生きてみせますよ!!
 

パキスタン人の友人と・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年11月21日(日)23時59分53秒
返信・引用
  パキスタンでは、アフガニスタンでの戦争難民がなだれ込み深刻な人口増加が問題となっています。

ましてやその難民の中に自爆テロや兵力拡散を目的とした武装勢力等も紛れ込み、必然的に軍事勢力がパキスタンでも毎日のように爆音や悲鳴で街は混沌としています。

っというのも私の友人のパキスタン人はまさにその戦争まっただ中の母国に毎年家族の安否を伺いに日本からパキスタンに帰国するそうです。

私も来年のいつになるかは分かりませんがその友人の家を拠点に戦争というものがどういう形で悲惨なのかをこの目で確かめ、考えてきたいと思います。

日本は目に見えない戦争の真っ只中で決して平和とはいえませんが、せめて心は平安でありたいものです。

私は毎朝毎晩心の豊かさと平安をキリストにお祈りしています。

それではお休みなさい!!
 

私もです

 投稿者:寺田祐一メール  投稿日:2010年10月26日(火)02時07分6秒
返信・引用
  3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 ヨハネの福音書

 3:3の「人は、新しく生まれなければ」という箇所は、英語ではBorn Again、日本語では「新生」と言われます(conversionという語を使ったりもします)。イエス様と出会って生まれ変わる、今度はクリスチャンとして新しく出発すという意味で、つまり、自分の中でずっと積み上げて来たものの延長線上にある悟りとは違うらしいのです。
 実は私もよく分からないのですが、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」とイエス様がおっしゃる通り、悩みの解決、新しい哲学、理性の果てにあるものではなく(形而上学の不可能を言う)、イエス様との出会い、それを御霊によって知ることなのだと。
 不思議なことですが、でなければ、ごちゃごちゃとうるさい私のような者は、その救いの恵みにあずかることは出来なかったでしょう。
 一度死んで(罪の中に)、新しく生まれる(御霊によって)、これが洗礼です。
 洗礼を受ける者は、水から上がるその時、圧倒的な恵み、喜びとして知るでしょう。そしてこのすべてのことを無条件で受け入れる、これを信仰と言うのでしょうかね。
 罪を自覚出来るクリスチャンこそ、罪との戦いは生涯続くでしょうが、まず、自分が罪深い者と徹底的に知るのは、新しい人生の始まりです。
 私の文章はピントが外れていますが、聖書にはすべてのことが書いてありますので、野寺先生のもとで、さらに学ばれるとよいと思いますよ。
 

罪に打ちひしがれます・・・

 投稿者:島根裕也  投稿日:2010年10月24日(日)23時32分4秒
返信・引用
  私は最近考えるのです。 自分は全的に堕落していて、神様がこんな私の信仰まで義と認めてくださった・・・本当に感謝という言葉以上の言葉があるなら叫びたいほど私はありがたく思っております。 一方では私は自分の内存する罪や誘惑に流されて犯した罪・・・とにかく私は情けない。

本当にどうしようもない私ですが罪を意識して生活していきたいと思うのです、しかしそんな自分すら罪に見えてくるのです・・・私は自分を良く見せようとしているだけではないのか?結局自己満足で終わらせていないか?そもそも私の罪を意識する心すら偽善に思えてくるのです。

私は洗礼を待ち望んでいます、しかし常に私は誘惑と背中合わせに寝ているのです。

本当に神様が隣で共にあり私を励まし支えて下さらなければ私は自分の愚かさにも気付かなかったかも知れません。それなのに堕落の象徴といっても可笑しくないであろうこの私が罪の判断基準を自分で勝手に決め自らを裁くことをしていないか?最後の裁きをお与えになる権利は神様にあるのに・・・私は神様のまねごとをしようとしていないか?これほどまでの冒涜があるか?私はただ祈るだけです・・・祈って祈って祈り通すだけです。

私は罪人なのだから私には神様に縋りつくしか生きる道がないのだと、感謝の気持ちで心は躍り、一方では自らの罪に打ちひしがれるのです。
 

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